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【ドキュメンタリー】【映画】『チェチェンへようこそ―ゲイの粛清―』感想 「秘密」に「個」が押し潰されないために

現在公開中のドキュメンタリー映画チェチェンへようこそ―ゲイの粛清―』を鑑賞しました。

作品紹介

本作は、ロシア連邦の加盟国の一つのチェチェン共和国で2017年から行われている国家ぐるみの同性愛者弾圧の実態を、その抵抗活動を行う組織に密着して描いた作品です。

この組織は、救援を求める同性愛者と密かに連絡を取り、当局の追跡を躱しながら国外へと脱出させる活動を行っています。当然ながら、メンバーの身元も容姿も明かすことが出来ません。

通常こういうケースでは、出演者の顔にモザイクをかけ、ボイスチェンジャーで声を隠す措置を取るわけですが、本作の監督は全く別の新しい方法を取りました。

制作チームは事前に協力者を募り、許可を得て顔と声のサンプルを収録。深層学習技術を利用して取材映像の顔と声にサンプルを合成したのです。

深層学習を使って別人の顔と動きを合成する技術は「ディープフェイク」と呼ばれ、フェイク映像の拡散など悪用が懸念されていますが、本作の監督はこれを「フェイスダブル」「ボイスダブル」と名付け、プライバシーを保護するための技術として活用しています。

このように、本作は内容の過激さと共に技術的な面でも注目を集めているドキュメンタリーです。

以下に内容と感想を書いていきます。


内容

過酷な救出劇

本作の舞台は、デイヴィッド・イスティーオリガ・バラノバという二人の人物(おそらく仮名)が主に運営する秘密組織で、同性愛者たちにモスクワ市内の某所に所有する「シェルター」を一時退避所として提供し、ビザの発給を手配して国外に脱出させるのですが、作中では様々なトラブルが発生します。

最初に登場する「アフマド」という男性は、チェチェン当局に拉致され拷問を受けた被害者で、カナダへの受け入れが決定していました。書類手続きを済ませて荷物をまとめていると、突然2階から叫び声が。

なんと入居者の一人が手首を切って自殺を試みてしまいます。救急車が呼べないため、自力で手当てをする入居者やオリガ達。血まみれの手首が映される中、オリガが「こんなところで死なないで!死ぬなんていつでもできるでしょ!」と絶叫。そ、そこまで言わなくても…

結果的になんとかなったらしくアフマドはそのまま出国。嫌な気分だっただろうなあ…。そんな感じで、決して順風満帆ではない組織の実態が赤裸々に描かれています。

目を覆いたくなる映像

取材映像の合間には、デイヴィッドの語りと共にチェチェンの同性愛弾圧の実態についてのフッテージが挿入されます。「LGBT活動家が入手したビデオ」として、スマホで撮影されたらしい動画がいくつか出てくるのですが、非常に陰湿かつ凄惨なものばかりです。

町中でいきなり尋問を行い、答えなくても答えても殴る映像、レインボーフラッグを掲げていた人物に集団で笑いながら襲いかかる映像、血まみれになった下半身の写真、ナイフで髪の毛を削いでいく様子などなどなど。

  • 特に最後の動画は『映像の世紀』のフランス陥落時の映像を思い出しますね…

最も凄惨なのは、どこかの住宅街の監視カメラの映像で、女性が車から引きずり出された何度も男に蹴り飛ばされた後、巨大な石を振り下ろされるという思わず目を背けたくなる内容でした。

それらに輪をかけてキツいのがチェチェンの独裁者ラムザン・カディロフのインタビュー映像です。クネクネしながら不気味な笑顔を浮かべていて、既に態度が悪いのですが、驚愕なのはその受け答え。

「ゲイに対する拉致や拷問の疑惑についてですが…」

「そんなことはありえない。チェチェンにゲイは存在しない。そんな奴らがいるのならカナダにでも連れてってくれ

そういうとこやぞ。

カディロフは他にも「民族浄化をしている」と堂々と言い切ったり、チェチェンの人気歌手セリム・バカエフの失踪についても「バ、バ、バカエフ?」とヘタクソなすっとぼけ方をしていて、ある意味一番気分が悪くなる映像な感じがあります。

  • ちなみに、カディロフの父親は暗殺されたチェチェンの前大統領で、名前を「アフマド」と言います。いや、さっきのアフマドさんには多分そういう意図はないと思いますが…

まるでスパイ映画

本作で取り上げられている組織は、その存在自体がほとんど公になっていない、電話番号を人伝に伝えることでのみ存在を知らしめるという超ストイックな形態を取っています。そんな組織の密着映像なので、スパイ映画さながらなシーンが次々登場します。

グリシャ」という男性(仕事でたまたまチェチェンに来ただけなのに拷問された)はロシアに住む彼氏を脱出させるため、空港に呼び寄せます。彼氏はシェルターに向かう車中で彼氏の男性はスマホで適当に人名を検索し「いい名前がないなあ」などと悩みながらコードネームを決めるのです。

アーニャ」というレズビアンの女性は、父親が政府高官性的指向も発覚済みというかなりデンジャーな境遇にあるため、シェルターを経ず直接国外に脱出させることとなるのですが、その作戦が凄い。

家族ぐるみの友人」という設定で待ち合わせをし、「服を買いに行きましょう」を合言葉に二人で席を立ち、自動車に乗り込んで空港へ直行。途中下車しトイレで着替え、スマホを取り出すと素手で破壊SIMカードとマイクロSDを引きちぎってゴミ箱に捨てます。

前述の映像からもわかるとおり、レズビアン女性差別も上乗せされるためにゲイ男性以上に深刻な状況におかれます。だからこそアーニャのケースではこのような作戦を取ったのでしょうが、スマホが手の中でメキメキとひしゃげていく映像は痺れましたね。

怖すぎるカメラワーク

本作は拷問の映像と脱出作戦とが交互に映し出されることで緊迫感を演出しているわけですが、現場でのカメラワークにも緊張感がみなぎっています。

例えば、シェルターの入居者が不審者の訪問について語り合っているとき、カメラは隣の家の解体工事の様子を延々と写しています。観ているこちらはあの解体工事も実は工作員の監視か何かなのか…?と疑ってしまいます。

アーニャを車で空港へ送り届けるシーンでは、外を走る車をいくつも写します。グリシャが家族と共に飛行機に乗り込むと、カメラはグリシャではなく窓の外の滑走路を延々と撮っています。グリシャが甥っ子に「飛び立つときが面白いんだぞ」と話しかけていても、動かない窓の外を映すのです。

こうしたカメラワークからは「ここでは何も信用できない。どの段階でも破綻する可能性がある」と観客に思い知らせたい意図を感じます。おそらく現場を見てきた監督の思いなのでしょう。

こうした演出もあり、混雑するイミグレや「チェチェンへようこそ」と呼びかけるカーラジオなど、なんでもないはずの場面一つ一つに恐怖を感じました。

ここから後半部分です。


救出失敗

前半も十分過酷な内容でしたが、後半は更に強烈な内容になります。オリガは、リーシャという女性を脱出させようとした所、合流直前に父親を連れた警察に捕まり、実家へ連れ戻されてしまったと語ります。

オリガは警察署に向かい、窓口で「行方不明の友人がいるので捜索してほしい」とストレートに通報します。もちろんこの作戦は失敗します。しかもこの行動が後々オリガの運命も変えてしまいます。

さらに、国外へ脱出させたアーニャから不満を述べる通話が入ります。というのも、正式な非難のためにビザを手配する間の滞在先として組織が手配したのはボロボロのアパートで、精神的に耐えられないというのです。

アーニャは入居の段階で既に微妙な表情を浮かべていました。若い女性が全く知らない国全てを捨てて生活するわけですから辛いに決まってます。さらにビザの発給に手間取り何ヶ月もの滞在を強いていたことも問題だったようです。

  • また、アーニャは祖国ではいわゆる「上級国民」だったのでしょうから、生活レベルの急激な変化にもついていけなかったのだろうと思います。

難民を描いたドキュメンタリーは必ずこのような展開を迎えますが、本作では性指向と性別という二重の差別の上に成り立っている点が非常に悲しかったです。

グリシャの決断

一方、グリシャは一つの決断をしました。出国に成功したものの、あえてもう一度ロシアに戻り、弾圧の実態について実名で証言することを組織に承諾したのです。

証言当日、会見場に欧米のメディアも詰めかける中、グリシャが登場。そして第一声。「私はマキシム・ラプノフです」。すると、フェイスダブルがだんだん薄くなっていき、グリシャ、もといマキシムの素顔が!

そしてこのシーンから彼は「グリシャ」ではなく「マキシム」と呼ばれ、素顔のまま登場するようになります。この演出は見ていて「なるほど、こうきたか」と思いました。

  • 実はこの演出に似た演出を取る映画が過去にも存在します。この点については後述します。

悲しい結末

デイヴィッドとオリガはマキシムの証言をもとに刑事告発を行います。裁判所で緊張しながら結果を待つ二人。すると裁判長が現れ超早口で「本件告訴については…云々かんぬん…の理由により棄却する」。早足で退室。命がけの告発はわずか30秒で終了

二人には更に非情な連絡が。アーニャがアパートから失踪しました。組織は彼女の苦情に対応し新しい部屋を用意したものの、そこには「連絡しないでください」との書き置きが。デイヴィッドは所在なげに空っぽの部屋をうろつきます。

一方のオリガはとある国へ亡命を申請しました。先述のリーシャの捜索願に本物の個人情報を書いた所、脅迫を受けてしまったのです。こうしてオリガは組織から事実上離脱します。まあ、そうなりますよね…。

マキシムは無事に帰還を果たし、彼氏と海岸を歩いています。マキシムは素顔でも、彼氏は偽名でフェイスダブルのまま。言葉も文化も違う国に戸惑っている様子で、アーニャと同じ種類の不安を覚えます。

マキシムはそんな彼氏を励ましつつ海岸で追いかけっこ。カメラは遠ざかる二人の背中をただ映しています。

ラスト。デイヴィッドは「生きている限り我々の勝ちだ」と述べてエンドロール。「アーニャとセリム・バカエフの行方は現在もわかっていない」と表示され終わります。

感想

希望の見えない「焦り」

本作で徹底的に描かれているのは、組織の二人が抱える「焦り」だと思います。

飛行機が滑走路を飛び立つまでの焦らすようなカット割りや、いくつものトラブルが並行して示される編集、BGMの使い方など、映像的な演出としてまずそのような印象を受けました。

また、オリガの言動や、デイヴィッドの常に周りを見回しながら移動する様子、警察に捜索願を出すという一見軽率とも思える作戦(素人に口を出せる問題でないとは思いますが)も、二人の焦燥感を反映したものと感じさせます。

本作と同じく難民を捉えた映画で、昨年日本でも公開された『ミッドナイト・トラベラー』という作品があります。この作品はタリバンから殺害予告を受けたアフガニスタンの映画監督が、家族と共に難民として欧州を目指す様子を自らスマートフォンで撮影した作品です。

この作品もまた手持ち撮影による不安定な映像もあって焦燥感が伝わり、物悲しい結末を迎えるのも本作と同様です。その一方、「逃げる」側を捉えた『ミッドナイト・トラベラー』と、「逃がす」側を捉えた本作とには、「焦り」の性質に違いがあるとも考えられます。

「逃げる」側には「安住の地」という明確な目標が存在します。もちろん本当の意味での終着点は故郷に戻って安全に生活できることではありますが、中間地点ではあっても目標が存在することは少なからず「希望」に結びつくと思うのです。

その一方、本作の主人公である「逃がす」側の二人には、そのような「中間目標」は存在しません。一人を送り届ければまた一人に取り掛かる、という作業を延々と繰り返さなければならないわけです。しかも決まったメソッドは存在せず、成功率も低い。

彼らの仕事の終わりはチェチェン共和国が同性愛者弾圧を認め、中止することにしかありません。しかしカディロフという独裁者の存在と、プーチンとの癒着構造というどうしようもなく強固な壁が立ちはだかり、果てしなく低い実現可能性となってしまっています。

言うなれば『ミッドナイト・トラベラー』に映し出されるのは「希望に辿り着けない」ことへの焦りであり、本作に映し出されるのは「希望が見えない」ことへの焦りと言えます。

どちらが深刻か、など軽々に判断することは出来ませんが、希望と絶望が波のように繰り返していた前者に対し、後者の本作はひたすらに絶望を感じる内容だったと思います。

フェイスダブルの効果

本作で使用されている新技術「フェイスダブル」について鑑賞して感じたことです。

本作の感想をネットで調べると「表情がのっぺりしている」という評価をしている人も見かけましたが、私はあまり違和感なく観ることが出来ました。コントラストが強い画面で多少顔がぼやけるぐらいで、基本的には非常に自然な仕上がりだったと思います。

同時に行われていた「ボイスダブル」については全く違和感がありませんでした。本当のところを言うとボイスダブルについては鑑賞後に改めて公式HPを見て初めて知ったんですけど、ということは普通に観ていればまず気づかないということなわけで、これは本当にすごい技術だと思います。

その上で本作においてフェイスダブルを使用した意義を考えると、やはり被写体への没入感が大きいと言えるでしょう。

本作のような地下組織を扱ったドキュメンタリー映画に、2008年に制作された『ビルマVJ』があります。軍政下のミャンマー報道規制を掻い潜って取材するジャーナリスト集団を追った作品で、本作同様登場人物全員が顔出しNGとなっています。

ビルマVJ』もとてもいい映画なのですが、基本的には彼らが撮影した報道映像を主体としていて、活動中のジャーナリスト達の姿は中越しや逆光といった形でしか映らず、どこか活動を外から眺めている印象がありました。

対して本作は組織のメンバーや救出された同性愛者らの表情がはっきりと映るため、彼らの「個」としての存在感が強調されており、まるで鑑賞者自身も共に活動しているような一体感が生まれているように思います。

映画の中でも特に、被写体の「笑顔」の映る瞬間が最もフェイスダブルの効果が発揮されている部分だと思います。前述のような顔を出さない演出ではどうしても影を帯びているようなイメージになってしまいますが、辛い環境の中で細やかでも楽しみや日常を取り戻そうとしている様子が生き生きと映し出されていると感じました。

ディープラーニングを利用した画像合成はそれ自体相当な負荷のかかる作業ではありますが、本作のような環境での取材には大きな効果を期待できる技術であることが証明できたのではないでしょうか。

あくまでもモザイクの延長線

一方で気になるのは最後の演出です。監督はグリシャが記者会見で本名を明かす際、フェイスダブルを解くという編集を加え、劇的なインパクトを与えようとしています。

この演出について、筆者は2つのドキュメンタリーを思い出しました。1つ目は2020年に日本で制作された『アリ地獄天国』、もう一つは昨年日本で公開されたチェコのドキュメンタリー『SNS-少女たちの10日間-』です。

『アリ地獄天国』は日本のとある有名引越社を舞台にした労働争議を追った作品です。この作品では主人公で争議の当事者の男性が「西村有」という仮名で登場しますが、映画の終盤、会社を辞め労働団体に専従することを表明し、記者会見の場で本名を公開します

監督がナレーションで、「あれ、『西村さん』はもういいの?」と問いかけると、男性は「西村も結構気に入ってたんですけど」と照れ笑いを浮かべます。このシーンは、本作同様「救う側」に回る決意を表す意図を感じます。

  • ちなみに、本作のマキシムも「グリシャは似合ってるだろ?」と発言するシーンがあります。

SNS』は童顔の女優に子供服を着せ、子供部屋を模したセットで自撮りを行ってSNSに投稿するという実験型のドキュメンタリーです。作中ではSkype越しに大量の変態親父が群がってくるというおぞましい光景が繰り広げられますが、犯人の顔(当然性器にも)モザイクがかけられています。

  • この映画、目と口だけモザイクがかかっていない点が非常に不気味なのですが、パンフレットによるとスタッフはわざわざ手作業でモザイクを取り除いたそうです。

しかし、映画中盤、Skypeをかけてきた一人の大学生が「裸は無闇に他人に見せるようなものじゃないよ」と彼女らを慰めるような言葉をかけると、感動的な音楽と共にモザイクが解けるという場面があります。

この場合、モザイクが解ける意味は単に「撮影の承諾が取れた」ということ以上に「彼はケダモノではなく人間としてコミュニケーションをとっている」という敬意の表れであると考えられます。

そのように考えると、「グリシャ」が本名のマキシムとして証言することを決断するシーンで監督があのような演出をとったのは、「フェイスダブル」もまたモザイクの延長線に過ぎないと考えているように思います。

フェイスダブルについては、本人と異なる顔を当てはめることで被写体に対する異なった印象を与えてしまう、言ってみれば「100%同じ再現ドラマ」と化してしまうのではないか、そのような作品をドキュメンタリーと呼んでいいのか、という哲学的な議論も散見されました。

筆者は本作を鑑賞して、監督自身もそのようなリスクを考えた上であえてフェイスダブルを用いたのではないか、と感じました。その現れがあのフェイスダブルの剥がれるシーンだと考えています。

  • なお、マキシムの素顔とフェイスダブルはそれほど大きく異なってはいませんでした(鼻の高さが違うくらい)。似た顔の人をサンプルに選定したのでしょう。

仮に『ビルマVJ』のように後ろ姿などで統一することも一つの手段ではあったでしょう。しかしそれでは被写体の「個」としての表情がなくなってしまう。「個」の強調の手段として監督はフェイスダブルを選択したのではないでしょうか。

すなわち、フェイスダブルはモザイクに取って代わる手段ではなく、被写体のプライバシーを守る新たな選択肢として生み出されたのだと筆者は思いました。

おわりに

本作はジェノサイドと難民という深刻なテーマを抱え、凄惨な映像と絶望的な展開がふんだんに差し挟まれる非常にどぎついドキュメンタリーであり、鑑賞にはそれなりの覚悟が必要と思います。

一方で監督も過酷な環境下での撮影に加え、新たな技術の導入というテーマに取り組む二重の覚悟を背負った上で本作を世に出したものと思います。

筆者自身は、そうした覚悟に見合う凄みが本作にはあると感じました。また、映像表現に対する新たな選択肢も十分に示せており、ドキュメンタリーの歴史に新たな一歩を踏み出す意欲作だったと思います。

皆さんも機会があればぜひ鑑賞してみてください。