やばいブログ

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【フィクション】【やばい映画】『Revolution+1』感想 山上徹也は目覚まし時計を使わない

久々のブログ更新ですが、またやばい映画を観てきたので簡単に感想を書きたいと思います。

安倍晋三さんが殺害されて1年が経ちました。突然ですが、皆さんは昨年9月にこのような写真が話題になったのを覚えているでしょうか。

これは、9月27日に行われた安倍元首相の国葬の際に国会前に出現した、殺害犯である山上徹也のコスプレをした人たちです。当時「不謹慎だ」「ショルダーバッグも統一しろ」など各方面で炎上しましたが、実はこのコスプレ隊、ある映画監督の作品の宣伝をしています。

彼らが掲げている「銃」「銃弾」「武器」「銃口」「引金」と書かれた紙は、1971年に足立正生という監督が製作した『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』というドキュメンタリー映画から採ったものです。「銃弾」が裏焼きになっているのは映画の演出。

足立正生は、左翼系映画監督の巨匠である若松孝二の片腕として映画界に入り、当時レバノンで活動を始めたばかりだった日本赤軍を取材、感化されてそのまま参加してしまい1997年に逮捕されるという経歴の持ち主です。その後も自主制作監督として数々の作品を発表しています。

そして山上コスプレ隊が出没したのと同日、渋谷のLoft9にて足立監督は新作の公開イベントに出演していました。その作品こそが、今回取り上げる『Revolution+1』。山上徹也をモデルにした人物が主人公の映画です。

作品紹介

公開の少し前に東京新聞などで存在が報道されるとSNSで大炎上し、一部の上映会場に抗議が殺到するなどした本作でしたが、その実態は事件直後に企画が始まり、9月27日の国葬当日に併せて公開するという超突貫工事で制作された低予算映画です。

なお、国葬当日に上映されたのは50分のラッシュ版で、今回筆者が鑑賞したのはそこから30分ほどシーンを付け足した完成版。パンフレットには、ほとんどのロケを撮影監督の自宅で行ったなどの裏エピソードなどが満載で読み応えがありました。

これまで「やばい映画」で取り上げてきた参政党の映画や幸福の科学映画と違い、有田芳生さんや望月衣塑子さんなど錚錚たる著名人が評価している作品なので茶化すのも若干気が引けますが、筆者は記事を書くために本作を3回も鑑賞したのでとりあえず内容をまとめていきたいと思います。

内容

山上、日本赤軍に憧れる

冒頭、いきなり大和西大寺駅前で安倍晋三が銃撃される実際の映像が流れます。そこからフィクションの映像に繋がり、SPに取り押さえられる山上、ならぬ主人公「川上」がドアップで映ります。

「あいつは俺と、どこまでも真逆の存在だった…」と、ナレーションかと思いきや拘置所の中で独りでブツブツ呟いている川上。なぜか室内なのに土砂降りの雨。足立監督は「シュルレアリスト」なんだそうなので、きっと「シュルレアリスム」なんだと思います。

以降、物語は山上…じゃなかった、川上のモノローグを中心に進みます。川上のセリフは基本的に、事件後に数多出た山上の生い立ちについての記事の抜粋を朗読しているような状態なので大変わかりやすいですが、筆者が気になっているのはそんなことではない。

先述した通り、監督は元日本赤軍メンバーで、山上の行為を「決起」と呼んでいます。筆者が求めているのはその辺の思想を事件とどう結びつけているかです。時代も思想も全く違う二人の人間を、さあどうやって結ぶ?

山…違う、川上のモノローグは、父親の話に及びます。「京大工学部に進んだ父の楽しみは、気の置けない仲間とする麻雀だった…」そして、回想シーンで川上父に振り込ませ「ハハッ、ツイてねえな!」と煽る学生が、後にテルアビブ空港で銃を乱射し…えっ、それだけ?

これは、事件後に週刊文春に載った「山上の父親の学生時代の麻雀仲間に後の日本赤軍メンバーの一人の安田安之がいた」という記述を元にしているそうなんですが…いや、すごい偶然だとは思うけど、薄すぎるだろ!ほぼ他人じゃねえか!

ところが映画は完全にこの一点で突っ走っており、山…川上は「俺はになる、何のかはわからないけど」とか、パソコンで星図を眺めながら「俺の行くはこの中にあるんだろうか…」などと決め台詞のように「星」を連呼していました。

何故やm…川上がそこまで「星」に拘るかというと、テルアビブ空港乱射事件の裁判で被告人の岡本公三が述べた「我々はオリオンの三つ星になりたかった」という言葉を元にしているのですが、いかんせん繋がりが薄すぎて、なぜ川上がそこまで入れ込んでいるのか不思議で仕方ありませんでした。

  • 一応、劇中で「安田君」なる人物が登場する川上父の日記を捏造したり頑張っているんですけどね…

山上、ブルハをデュエット

そして、本作の主題である山上、もとい川上(以降面倒なのでこのキャラクターを山上と呼びます)の宗教二世としての側面が語られます。ここではハッキリ統一教会」という名前が登場し、真のご父母様の御尊影も出てくるので偉い。

  • …のですが、この後この点で問題になる描写が登場します。

一方で、詳しくは後述しますが、山上母が統一教会に入れ込む描写として祭壇の前で祈りを捧げるシーンが挿入されるも、熱心な信者なら欠かさないはずの「敬拝」の描写が抜けているなど、全体的にディティールの甘さが目立ちます。

そんな山上は自衛隊に入隊し、「人を殺すための訓練…俺に人が殺せるのか」と左翼監督らしいセリフを挟んだ上で、ベンジンを飲んで自殺を図るところまで描かれます(瓶から一気飲みしていて大変男らしいです)。

入院先の病室で山上に出会いが訪れます。「私も宗教二世なんだ」と告白する若い女性が訪れ、リストカットの跡を見せます。宗教二世ちゃんは突然ブルーハーツの『未来は僕等の手の中』を口ずさみ始めます。宗教二世ちゃん「僕ら打ちのめしてやろう〜♪」山上「未来は僕らの手の中〜♪」お前も歌うんかーい!

みんなWANDSやB'zばかりで、ブルーハーツには目もくれなかった」と語る山上。これは週刊文春に載った中学時代の同級生の発言に基づく史実ですが、「ヒロトだけが救いだった。ブルーハーツが俺にとっての神だった」はやり過ぎ。この映画で「神」はだいぶセンシティブな言葉なはずですが…

宗教二世ちゃんはブルハのデュエットですっかり打ち解けたのか「抱いていいよ」とパジャマの一番上のボタンを外して誘います(事務所NGなのかそれ以上脱ぐことはありませんでした)。股間を押さえつつも断る山上。

なおも「私の胸で思いっきり泣いていいよ」と山上を押し倒す宗教二世ちゃんでしたが、そこで病室の電気が点くところで終わり。その後の展開に繋がることもなく、何のためのシーンなのか全くわかりませんでした。

山上、大暴れ!

本作にはたびたび山上が銃を製作するシーンが登場します。銃の模型のクオリティはかなり高い感じでしたが、薄暗い部屋に真の御父母様の写真が所狭しと貼り付けられていて、個人的にこのクリシェは嫌いなのでやめてほしかった(まあそんなことはこの映画では些末な問題ですが…)。

自衛隊を辞めたあと、職を転々とする山上。フォークリフトを操作していたかと思えば、突然軍手を放り投げ、ツナギを脱ぎ捨てるとそのままどこかに去ってしまいます。いや、「シュルレアリスム」なんですよね?わかってますよ。

ここから街中で歩きスマホをする山上の映像が続きますが、ここは彼の安倍晋三殺害の動機が語られる重要シーンです。「皆このクソのような世界でクソのような生活を自ら選択しているクソだ」と社会に対して疑問を持つ山上。

「…だが俺は違う、俺がこんな生活をしているのは統一教会安倍晋三のせいだ!」として、安倍の殺害を決意。部屋の中には御父母様に加えて、安倍晋三の幼少期から現在までの写真を貼り付け、パソコン画面から流れる例のUPFビデオメッセージを睨みつけます。

  • ギャラリーの中にいわゆる「ジューシー写真」が紛れていて笑いそうになりました。

これって、事件後に一部の保守系の論客の間で言われていた「山上は自分の人生がうまく行かない原因を統一教会安倍晋三に押し付けているだけ」という解釈そのままですよね。山上の自分に酔ってる感じといい、むしろその手の人たちが喜びそうな描写です。三浦瑠麗さんとかに観てほしい。

なぜかそのへんの雑木林に分け入っていく山上。草むらの中に謎のオブジェが佇んでおり、山上はその周りをグルグル回り始めます。ちょっと教養がないので何が起きているのかわからないのですが、やっぱり「シュルレアリスム」なんですかね。

俺は統一教会の奴隷じゃなーい!」「俺は安倍晋三の奴隷じゃなーい!」「俺は自分自身の奴隷じゃなーい!」(?)「ウワーッ!クソーッ!クソーッ!ウワーーーーッ!」叫ぶ山上!オブジェを破壊する山上!呆然とする筆者!


ここから後半部分です


「革命家二世」登場

アパートに帰宅した山上。隣の部屋の扉が開き、キャミソール姿の大人っぽい女性が誘い込みます。淡い照明の下、「宗教二世なんだ。それで言うとあたしはね、革命家二世」と自称する女性。幼少期に父親が自分を置いてアラブへ渡ってしまったのだとか。

  • 本作にはやたらと「宗教二世」という言葉が登場するのですが、この単語が人口に膾炙したのは事件後で、それまでは「二世信者」という言い方が一般的だったのでは?と思いました。

革命家二世さんは「ギーコギーコと毎日騒がしいけど、何作ってんの?」「それじゃあ、革命的警戒心が足りないぞぉ〜?」など非常に独特の言葉遣いをする女性で、喋り方も桃井かおりのモノマネをする椿鬼奴みたいな感じで、どういう感情で見たらいいのかわからないシーンでした。

山上は「爆弾!ピストル作ってる!センター街で誰もいいからぶっ放す!」と革命的警戒心の足りない自白をして注意されます(なんでセンター街なんだろう)。すると一転「俺がやりたいのは革命ではなく復讐」「誰かは言えない」とクールダウン。

今度は革命家二世さんがヒートアップ。「革命家二世やエコロジスト三世」が参加する会合へと山上を誘いますが、山上は「人と話すの苦手なんで」と面倒くさいバイト先の先輩を振り切る大学生みたいな言い訳をしながら立ち去ろうとします。

すると、革命家二世さんは突然スペイン語で叫び出し、「ごめん、クセが出ちゃった…」と謝罪。どういう癖なのかとても気になるところですが、特に何の説明もなくこのシーンも終わり。革命家二世さんも二度と登場しません。

統一教会の話じゃなかった!

闘病生活を続けていた山上兄は精神を病み、母親が通う「世界平和統一教会」の建物に乱入します。…「世界平和統一教会」?「世界平和統一家庭連合」(または「世界基督教統一神霊協会」)じゃなくて?もしかして今まで見ていたのは我々の知っている「統一教会」の話ではなかったのでしょうか。

  • 別のシーンで「世界平和統一家庭連合」という名前も出てくるので本当に謎です。ロケ時のトラブルを避けたかった?

玄関から侵入すると、すぐにスーツ姿の警備員が二人、仁王立ちで立ちはだかります。…捕まえろよ!包丁持ってる時点で現行犯じゃん!しばらくすると山上母が、引き止める信者を引きずりながら駆けつけ、包丁を突き付けられます。だから捕まえろって!

山上兄は母親に刃を突き立てることが出来ず、目の前の「御父母様」の御尊影に突進、警備員に手刀を使われあっさり敗北。山上母は「家庭盟誓」をブツブツ唱えながら力なく奥へと消えていきました。これが「世界平和統一教会」か…

生身の信者より教祖の写真の方が大事」という描写なのは分かるんですけど、教団としては施設内で刑事事件を起こされるのだって避けたいはずでは?一度手を伸ばしてから引っ込めるのもよくわかりません。ガラス扉に貼り付けられたALSOKのシールが虚しい限りです。

山上兄は拘置所の中でシーツを裂き首を吊って死亡。揺れる死体のバックで山上母の家庭盟誓が鳴り響きます。怖いよー。

子宮回帰

ある日、路上を歩く山上母の後ろをシャトルランのように反復しながら近づく挙動不審な山上。母は山上にアパートの保証人になることを切り出し、「久々に手料理作るわよ。ケランチム、韓国風蒸し卵」と張り切りますが、山上は呆れ顔。祝福家庭ってそんなに韓国料理推しなんでしょうか?

  • 史実ではこの時借りたアパートは火薬を乾かすために使われたのですが、劇中には特に反映されていませんでした。

射撃の練習をする山上の元に兄の幻影が現れ「撃ち方が悪いんじゃないか?腕で撃つんじゃなくて、脇を締めて…」とアドバイスだいぶ初歩的だな…ついに納得のいく銃が完成し、山上は部屋中に貼った安倍晋三の写真を剥がし、喜びをコンテンポラリーダンスで表現。

駐車場の脇で誰かを待つ山上。やがて「どうしたの?いきなり呼び出して」と山上妹が登場。山上は自分と違い順調に人生を歩んでいる彼女に「お前はいいよな、女は女を使える」と言い放ち激怒され、「見てろよ!」と捨て台詞。呆れた妹は引き返します。マジで何のために呼び出したんだ…?

事件前日、山上は金を下ろすと車に乗り込み、安倍晋三を殺害するために岡山へ向かいます。道中、「世界平和統一教会」の施設を掃除する母親を発見。車から降りて近づくと、一緒に掃除を手伝います。「久々に料理作ってよ、韓国料理以外で」またその話かよ。

しかし、それは山上の幻想でした。山上は予定通り小野田紀美の演説会に出席。そこで翌日の演説予定が変更され、地元の大和西大寺駅前を訪れることを知ります。史実からしても一番の盛り上がりシーンだと思いますが、山上がなぜここで安倍晋三を殺さなかったかの説明が足らない気が(史実では手荷物検査に阻まれて引き返している)。

  • この場面で小野田の写真と実際の演説音声を使っているのは公人に過剰な配慮を行う作品の多い本邦においては好感が持てます。

事件当日、山上は革命家二世さんの部屋から響くレイヴ音楽を聴きながら外出(壁薄すぎない?)。「世界平和統一教会」の壁面に銃弾をお見舞いすると、路地裏に潜んで時間を潰します。イヤホンを嵌めていますが開いているのはLINEのトーク画面なのでよくわからない。

そして、気を溜めたらしい山上は大和西大寺駅前に向かいます。実際の事件現場で撮影した映像をインサートしていますが、現場となったガードレールは12月中旬に撤去されてしまったので、今となっては貴重映像。なかなか英断だったと思います。

再び冒頭に戻り、事件の実際の映像と、取り押さえられる山上が映し出されます。すると突然、画面は山上の妹の部屋に。妹は画面に向かって「民主主義の敵だとか言われるだろうけど、民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ。民主主義の敵を倒したのはお兄ちゃん。私は尊敬するよ」などと言い出します。

  • このシーンはいわゆる「第4の壁」に向かって語りかけているのですが、それまでそんな演出は皆無なので古畑任三郎』みたいになっていました。

「私は私なりのやり方をしてみる」と言う山上妹は、国葬の準備が進む武道館前に自転車を走らせ、曇り空の中に消えていきました。ここはゲリラ撮影にしてはカメラワークもなかなか良く、これで終わっていればそこそこ感動したかもしれません。

画面はどこかの海岸に飛びます。岩場の合間を縫うように歩いてゆく山上。「復讐など…今はどうでもいい…」と譫言のように呟きながら彷徨い歩くと、その辺に寝転がり、脚を抱えて丸まります。画面が白飛びし、タイトルが表示され映画は終了。えっ、終わり?

パンフレットによると、この謎シーンは監督おなじみの「子宮回帰」なんだそうです。ふーん。

感想

統一教会問題を理解していない

まず、誤解のないように述べておきますが、筆者は実在の凶悪犯罪者をモデルにした映画どちらかといえば大好物の部類です。最近では社会主義時代のチェコで通り魔事件を起こし、同国最後の女性死刑囚となった人物を描いた『私、オルガ・ヘプナロヴァー』がなかなか良かったです。

実際の安倍晋三統一教会教祖の実名・写真を出して毀損している点も表現の自由戦士として特に気にしていません。逆に、例えばサンクチュアリ協会の信者が光の戦士となって志位和夫を蜂の巣にする映画とかがあっても全然アリだと思ってます。ていうか観たいので誰か作って

  • 統一教会の資金をバックに制作されたと言われているスパイ防止法制定促進映画『暗号名 黒猫を追え!』(1987)と併映する劇場がなかったのが残念です。

また、低予算映画としての工夫に溢れていた点も評価します。特に終盤、応援団長を務める山上の様子を捉えたカメラがズームアウトすると、そこには誰もいなかった…というシーンは、エキストラが使えないことを逆手に取った意表を突く演出で驚かされました。

筆者が本作を「やばい映画」にカテゴライズしたのは、監督がテロリストだったから、というだけでなく、作品全体が明らかにその経歴をビンビンに意識させる内容で、かつそうするあまりに、史実の安倍晋三銃撃事件とはかけ離れた内容になっているからです。

作中では、山上がある段階から標的を韓鶴子から安倍晋三に完全に切り替えたような描写がなされていますが、現実の山上徹也は「コロナ禍で韓鶴子が来日しないから」という消極的な理由で、いわば「第2候補」であった安倍晋三を殺害するに至っています。

要するに、本作はコンセプトの段階で既に「事件を描く」という点は完全に破綻しているのですが、これはおそらく監督が「統一教会問題」と「安倍晋三銃撃事件」をうまく結び付けられておらず、「何か別の理由もあったはずだ」と思い込んでいることに原因があるように思われます。

世の中の一部の人々にとって「安倍晋三」という人間は様々な概念が内包された存在であり、その上で彼と統一教会との繋がりにそれまであまり関心がなかった人は事件を受けて「そんな理由で?」と『相棒』の小野田官房長のような気持ちになったのはわからないでもありません。

実際、監督や映画を評価する文化人のコメントを読んでいると、「山上は色々なことを理解して行動に及んだ」「山上を生んだのは平成日本だ」というような論調が散見されます。皆さん山上徹也に色々と背負わせすぎです。

本作における山上の描写が事件後の一部の保守論客の主張と類似している点は既に指摘しましたが、キャラクター自体の非現実性についても「真犯人は別にいる」という陰謀論者の主張と共通する構造を感じます。

筆者はウォッチャーの端くれとして以前から鈴木エイトさんの記事などをチェックしていたので、山上の供述は「遊ぶ金が欲しくて」「カッとなって」と同列ぐらいにはナチュラルな受け止めをしています。しかし、世の中にはそう感じない人が多くいることもこの1年で実感しました。10年間のジャーナリズムの怠慢の深刻な影響だと思います。

要するにこの作品は、安倍晋三」というコンテンツに対して、原作のエンディングに納得のいかない拗らせたアンチの作った厄介な二次創作みたいなものなのかもしれません。

描写のムラが大きすぎる

本作の語る統一教会問題は全体的に「貧困」に偏っています。宗教二世問題といえば他にも「教団の意向によって勝手に人生を決定される苦痛」であったり「一般社会との断絶」というのも重要な要素として語られますが、本作にそのような要素はほとんど登場しません。

  • 山上家にそのような問題があったかどうかは報道などで明らかにされていません(あっただろうとは思います)が、ここまで見てきたように本作の山上は史実の山上とはかけ離れているので障壁にはならないはずです。

その貧困の描写も、山上が「いつも俺達は腹を空かしていた…」と独白すると、回想で幼少期の山上の妹が「ハンバーグが食べたい!」と突然テーブルを叩き「友達の家は週2回はハンバーグ!私たちの年齢の子供には、それぐらいの栄養とカロリーが必要なんだって!」と妙に説明的に抗議するなど、昭和の家族ドラマみたいでした。

この描写の微妙な古臭さは全体に通底する問題で、細かいところではスマホを所持している山上徹也がアラーム機能を使わずに昔ながらのベル式の目覚まし時計で起床するなど、現代の若者の描写として違和感のある点が散見されました。

  • このような「頭の中身が古い人が若者を描くと大変なことになってしまう」という問題は、前回紹介した幸福の科学映画『呪い返し師―塩子誕生』にも見られます。

そして、このような伝統的なクリシェをふんだんに散りばめて製作した結果、本作は統一教会批判をする上で重大な矛盾を生じさせています。

映画を見慣れている方は、本作の筋立てが脚本術として定番の「父殺し神話」の変種であることがおわかりいただけると思います。劇中の山上は安倍晋三の祖父である岸信介と自らの父親を重ね、無意識にその因縁を殺意に転換させています。

さらに本作は山上を「親の愛を受けられなかった存在」と定義しており、直接的には幻想の母親との会話や現実の母親を殺せない兄、間接的には宗教二世ちゃんや革命家二世さんを母親の代理に見立てた上で、自ら拒絶するわけです。

しかしそれは同時に、父親を「力」の象徴、母親を「愛」の象徴とする保守的な家族観を肯定することに繋がり、統一教会の押し付ける「理想家庭」の概念に振り回された人間を主人公にした作品としては些か無神経な描写と言わざるを得ません

  • もちろん「山上は統一教会に反抗しながらも無意識にその教義に囚われていた」というような細やかな描写はありませんでした。

これは監督自身の思想が反映されたというより、統一教会問題へのリサーチの足りなさと、脚本を早く上げようとするあまり伝統的なクリシェを多用してしまったことが悪い相乗効果を生んでしまったものと考えられます。

監督は山上の半生については報道ベースとはいえ相当なリサーチを費やした形跡は見て取れるのですが、それ以外の面へのこだわりが欠かれている印象でした。もう少し取材対象を広げていれば、海自出身の山上が緑の迷彩服を着ていたりはしなかったでしょう。

「祭り」は半年も続かない

監督は本作をして、「『祭り』を起こしたい」と述べていたそうです。映画は昔から一夜の間に賑わって、太陽が登ると共に撤収する祭りに例えられます。本作がわずか2ヶ月の制作期間を利用して炎上の力に宣伝を頼る戦略を採ったのはまさに「祭り」的で見事だったとは思います。

しかし、だとすると脚本を執筆した井上淳一がパンフレットの中で、パイロット版を鑑賞した荒井晴彦から「これは再現ドラマに過ぎない」と酷評されたことに素直に凹んでしまっているのは疑問です。いや、そうなることは予想できたでしょ?

映画を祭りとするのなら、本作は見世物小屋のように「さぁさ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!SNSで大炎上の問題作、安倍晋三銃撃事件の映画が初公開だよ!」と呼び込んで、客から「金返せ!」と罵声を浴びせられながら次の興行に向かうような趣旨の作品だったと思いますが、一体それ以上の何を望んでいたのでしょうか

井上はその後でつらつらと「時間がなかったから」という趣旨の話をしているのですが、ちゃんとした評価が欲しいのだったら最初から国葬の日に公開」などやめて腰を据えて完成させれば良かったはずです。自分から選択したことを不可抗力みたいに言うのは違うと思います。

そして、監督は追加撮影を行って30分のカットを追加し、「完成版」を半年近く興行しました。その選択をした時点で既にこの映画は「祭り」を捨てています。だからこそ筆者も長々とレビューを書いているのです。筆者に3回も鑑賞機会を与えた時点で監督の目論見は破綻していると思います。

加えて、この追撮の内容も監督の統一教会問題へのリサーチ不足を示していると感じました。パンフレットの記述を参考にすると、追加されたのは少なくとも後半の「ケランチム」と「掃除」のシーン、ラストの「子宮回帰」です。

パンフレットの赤坂真理のコメントでは、ここでの母親と山上の会話は彼の幻想として扱われています。つまり、「やたらと韓国料理を推してくる微妙に会話の噛み合わない山上母」は幻想で、「家庭盟誓を譫言のように唱える山上母」が現実ということです。

  • と、赤坂は主張しているのですが、「ケランチム」のシーンは山上のアパートの保証人に同意するという現実に干渉する展開を含んでいるので、筆者は現実のシーンと解釈していました。

しかし、史実の山上の母親は事件後に妹と電話で会話し「世間に謝りたいので会見を開く」「信者の家にいるので猫を預かって欲しい」などと要求し激怒を買っていました。この報道からは、むしろ「幻想」の山上母の描写のほうが史実に近いのではないかと感じられます。

宗教に限らず悪徳商法陰謀論など、カルト的思想に親族が嵌ってしまったという人の体験談を読むと、多くに共通するのは「日常的な話題は問題なく通じるが、ある点に至ると心を閉ざしてしまう」ということです。部分的に過去の面影を感じるからこそ居た堪れない思いを抱えてしまうということでしょう。

本作における山上母の描写は「カルトに嵌った人」と「心の病気の人」の区別がついていない印象を受けます。追加撮影をする時間があるのであれば、もう少し多面的なリサーチをして脚本もリライトすべきだったと思います。

おわりに

先述した井上のパンフレットへの寄稿によると、本作を企画したそもそものきっかけは事件2日後の7月10日に共同通信の安藤涼子記者から届いたメールだったそうです。戦犯はお前か

メールの内容は『シングルマザーの貧困に派遣社員の労働問題、インターネット時代の孤独……山上の人生には全部入っていますよね。なのに安倍の功績ばかりを讃えるマスコミ、アホすぎる。』『彼の目から見た世界を描くのは、こりゃもう映画の仕事ですよ』というもの。

筆者はこの記述を見て非常に納得がいってしまいました。メールがどの程度影響を与えたかはわかりませんが、この文面には本作の問題点が如実に反映されていると感じます。教団の名前が初めて報じられたのは9日夜ですが、その後に書かれたメールで、なぜ「全部」の中に「統一教会」が含まれていないのでしょうか。

山上の動機は第一報の段階から極めて簡潔に示されているし、それだけで十分説明可能なものです。そもそも殺人犯が人を殺す理由などそれぞれであり、それらを「貧困」「労働」「孤独」に単純に当てはめるのは、むしろ「全部」に目を配っているようで現実世界の複雑性を何一つ直視していないように思えてしまいます。

身も蓋もないことを言ってしまえば、安倍晋三の政治手法に対する検証や、統一教会問題の解決は、山上の犯罪とは何ら無関係に粛々と進められるべきことだと思います。その結果で山上が喜ぼうが悔しがろうがどうでもいいことであり、映画のコンセプトにイマイチ乗り切れない原因とも言えます。

政治問題を扱った作品も、実在の凶悪犯を描いた作品も古今東西数多くあります。しかし現代の映画界でその2つが接合することはほとんどありません。それは所謂「及び腰」ではなく、情報化の進んだ現代において、個人を大きな時代の象徴として扱う作品は作りづらいのだと思います。

実際、山上のTwitterアカウントが発掘され、多くの人が書き込みを分析するようになってからは、彼は「少し頭の良いごく普通の人間」であったという論調が広がり、それまでの想像の殆どは鳴りを潜めました。そんな状況でそのまま突っ走ってしまったのが本作の企画であるとも言えます。

タイトルの「+1」はしばしば、本作を鑑賞した人間のことだと解釈されます。監督は映画表現を通じて、現代の若者にも自分が見てきたような情熱溢れる動乱を起こすよう期待を込めていたのかもしれません。その思い自体は理解できるものではあります。

しかし、残念ながら本作は初動での関心の低さの時点でその力を持っていないことは明らかでした。冒頭で挙げたコスプレ隊が映画の宣伝だと気づいたのも筆者ぐらいでしょう。結果として主題の可燃性をうまく活かせず弱火のまま細々と燃え続ける作品になってしまった感があります。

現代の若者は「目覚まし時計」では目覚めないのです。