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【映画】感想を書き忘れた作品3本

結構前に鑑賞して、感想を書こうと思ったものの書けなかった作品が3本あるので、簡単にまとめておきます。どれも年間ベスト級に面白かったです。

『時代革命』記憶を覗く映画

香港にて2019年6月から始まった民主化デモについてのドキュメンタリーです。デモの始まりから、2020年末までのおよそ半年間を中心に、取材映像、インタビュー、報道、投稿動画などを用いています。

2021年のカンヌ国際映画祭でサプライズ上映され、日本でも東京フィルメックスにて上映、メディアに報道されるなど話題になっていましたが、この度国内外のドキュメンタリーを多く配給する「太秦映画」によって一般公開が実現しました。個人的にもとても気になっていた映画なので感謝ですね。

監督は香港出身の映画監督で、ドキュメンタリーよりも社会派の劇映画の業績で知られているようです。パンフレットによると、本作の制作後、企画していた映画から出資者や俳優が次々降板するという事態が生じたようで、中国共産党による圧力が疑われています。

現在、香港ではタイトルの「時代革命」という言葉自体が禁句となるほどこの事件の話題はタブー化されており、当然本作も上映禁止処分を受けています。そんなデンジャラスな状況にある映画が面白くないはずがない!…というわけで、以下に感想を書いていきたいと思います。

「衝撃映像」のオンパレード

冒頭、いきなり衝撃的な字幕が。「出演者の内、覆面の人物は音声を加工している。撮影後に音信不通になった人物は役者の再現に置き換えている」…これほどまでに不穏な境遇の映画はまずありません。期待感が高まります

本作は香港民主化デモについての映画ですが、最初の5分くらいで1997年の香港返還から2019年の逃亡犯条例改定問題に至るまでの経緯を全部説明してくれるので、特に知識がなくても大丈夫です。条例改定は香港に本土の警察を介入させ、自治が失われてしまう…という前置きから、画面は一気に抗議デモの内部へ引き込まれます。

序盤の見せ場は、7月1日にデモ隊が香港の国会議事堂にあたる立法会を占拠した際の映像です。突入の瞬間から、議場内部の映像、壇上のエンブレムをスプレーで塗りつぶしたり、アジテーションを始めるデモ参加者など、内部の一部始終が収められていて非常に見応えがあります。

香港デモは"Be Water"(ブルース・リーの格言が元ネタ)と表現されるように突発的に集合し、警察が集結すると瞬間的に解散するのが特徴でしたが、その集合から解散までの一部始終がガッツリ映し出されるので、自分も参加者になったようで非常に緊迫感がありました。警察から逃げる様子などは本当に手に汗握ります。

また、当時世間的に話題となった映像も多数登場します。印象に残っているのは、元朗駅でジャーナリストの何桂藍が配信中に白Tシャツの謎の集団から襲撃された映像、太子駅で香港警察が地下鉄車両を襲撃する映像、警察がデモ隊を至近距離から実銃で撃つ映像、交通警察が歩行者を銃撃する映像です。

  • ちなみに、太子駅での事件の映像はWikipediaで視聴できます。

ただ、これらの映像は本当に精神的にキツいものが多く、思わず顔を背けたくなりました。

記憶を覗く

本作は、全体としてアーカイブ映像や撮り下ろしの映像と、インタビューを交えたオーソドックスな作りになっています。デモ関係者の生々しい体験談が語られるわけですが、本作の驚くべきところは、そのインタビューの内容に映像がピッタリと合致しているところです。

例えば、序盤で民主派の議員が立法会占拠事件について語るシーン。「彼らの行動が理解できなかったが、何桂藍の配信映像で、映っていた若者二人の会話を聞いた時…」と言うと、実際の配信映像の録画が流れ、その場面が登場します。

  • ちなみに何桂藍はインタビューが役者に置き換わってしまった人の一人です。

他にも、デモの参加者が「この日のデモでこんな話をした」とか「こんな出来事があった」と語ると、まさにそのときの実際の映像が流されます。後半で大きく扱われる香港理工大学の籠城事件についても「デモ隊が信号弾を撃った」という情報が語られるとその瞬間を間近で捉えた映像が挿入されます。

要するにこの映画、全ての証言に実際の映像が用意されているのです。もちろんインタビューの中から素材と合致する発言を選んでいるのでしょうが、あの混沌を極める情勢の中でここまで仔細に映像を捉え、素材をまとめ、綿密に網羅しているのは驚異的としか言いようがありません。

さらに言えば、この「映像と証言を一致させる」という手法自体にも興味深さがあります。通常ドキュメンタリーにおけるインタビューというのは、映像に収められていない部分を補完する役目を担っていたりするわけですが、それってある意味では「苦渋の決断」ですよね。本当なら実際の映像があったほうが良いわけですから。

この、ドキュメンタリストが必ずぶち当たる「記録の欠落」という壁を、本作は圧倒的な素材量の力でねじ伏せているわけです。それはまるで登場人物の記憶そのものを覗いているような、今までにない映像体験でした。香港民主化運動というテーマでこれをやってしまうのですから、凄いの一言に尽きます。

パンフレットによると、本作のうちスタッフが撮影した映像は全体の2/3ほどで、残りはネット上で拾った映像を使用しているそうです。例として挙げられていたのが、デモ隊が警察に追われ散り散りになっていくところをドローンで捉えた映像YouTubeで偶然発見し、アップロード者に連絡を取って使用許可を貰ったそうな。

香港民主化運動といえば、このような一般市民の捉えた映像が多く蓄積されたことも特徴でした。特に本作にも登場する、警察が抗議者に向かって至近距離から実弾を発砲した事件は、現場を捉えた複数のアングルの映像から詳細な検証が行われたことも記憶に残っています。

そういう意味では、本作の圧倒的な素材量の多さというそれ自体も、描かれているテーマの一つの側面を表していると言えるかもしれません。

『乱世備忘』を超えて

本作は、単に民主化運動の経過をまとめただけではなく、運動の内部に潜入し、そこに存在したコミュニティであったり、参加者一人ひとりのパーソナリティだったりを掘り下げています。

運動の激化に伴って、参加者の中には自然な役割分担と緩やかな組織が作られていきました。本作では警察の駐留する地点を地図にまとめたり、参加者を送迎する車列を組んだり、催涙ガスによる負傷者の救護班や、デモのやり方を指南する人たちなど、様々な立場にあった人の証言と映像を集めていました。

他にも、運動とは直接関係がない個人の人生の機微に触れる場面もありました。印象に残っているのが「パパ」「ママ」と呼ばれていた男女二人組で、デモの中で出会い、親睦を深め、しかし激動の中で別離の危機に瀕しつつ、熱狂の中の一時の関係であると割り切っているかのような会話も展開されたり、これ自体が一つの映画にできそうな場面でした。

本作のこのような演出や、全体をいくつかの章に分け、転換時に画面を暗転させる手法などは、2016年の香港のドキュメンタリー『乱世備忘』に影響を受けたのではないかと思っています(もしかしたら共通のルーツがあるのかもしれませんが調べてもわかりませんでした)。

『乱世備忘』は2014年に香港で起きた雨傘革命を取り上げた作品です。デモ隊が占拠を続けていた幹線道路の一角にカメラを入れ、物資係を務めたり、テントの中で自主講座を開いたりする様々な若者の姿を捉えていました。

この作品では後半、占拠を続けようとする側と、政府との交渉を優先して妥協すべきとする側との対立が映し出されます。若者同士が街頭で熱い激論を交わす姿を捉える一方で、それまでに登場していた人物から、運動に疲弊し、進退について悩む人々が現れる場面もありました。

これに対し本作では、この運動ではそうした対立を乗り越えたと強調していました。穏健の「和理非」派と過激な「勇武」派、それぞれがインタビューに登場してお互いを認め合う発言をしています。ここは今までにない展開で、監督の運動に対する思いを強く感じた部分でした。

とはいえ、そう一筋縄では行かない面も映し出しており、例えば「モーニング」という仮名の救護ボランティアを担当した学生は、太子駅の事件で警察に活動を阻まれたショックから、同世代との対話でテロ活動への転向を望むような発言をし、周囲からたしなめられていました。

結果的にこの運動は中国本土からのより一層の圧力を受けるきっかけになってしまい、その評価は難しい部分があると思います。本作もやはり全体としては悲壮感の漂う構成で、特に印象に残っていたのがラストでインタビューを受けた一人が「僕は10代だから、10年刑務所に入ってもまだ20代だ」と発言していたことでした。

『私のはなし 部落のはなし』歴史が僕らを問い詰める

  • タイトル:『私のはなし 部落のはなし』
  • 監督:満若勇咲
  • 制作:日本、2021
  • 公式URL:https://buraku-hanashi.jp/

部落問題を扱ったドキュメンタリーです。全部で205分もある長尺映画。

実は、筆者は最初本作を観る予定は全くありませんでした(ごめんなさい)。情報は捕捉していたのですが、予告編の作りがなんか、いわゆる「人権ビデオ」みたいな感じでとっつきにくいというか(ごめんなさい)、ちょっとこれを3時間強見たいかな…という気持ちになってしまったんですよね(ごめんなさい)。

ところが、ざっと確認していたHPの出演者一覧の中に「宮部龍彦」という名前を見つけてとても驚きました。宮部龍彦というのは、「示現社」という企業の代表を務め、ネット上では以前から「鳥取ループ」という名前で活動している人物です。

鳥取ループ」は一般的には電話帳データを無料で検索可能にした「住所でポン!」の作者として有名かと思いますが、本領は部落問題を悪意ある形でイジる活動にあり、かつて被差別部落の住所一覧を売りさばいたことで悪名高い部落地名総鑑』の種本を突き止め、現物を入手してネット上で公開し、訴訟沙汰となったりしています。

他にも同和地区とされる普通の住宅街をカメラで撮影しながら歩き、トークを交えてYouTubeで公開(一部のよろしくないネットカルチャーで「ラクタモリ」と呼ばれていたりする)したり、とにかく色々な活動から人権団体に目の敵にされている人物なのです。

その人物がなぜこの映画に出演しているのか?一体何を語ったのか?というかこういう感じの人だったのか…別に鳥取ループのファンでもなんでも無いですが、この出演情報から一気にこの映画に危険な香りを感じ取ってしまい、俄然興味が出てきてしまったんですよね。鳥取ループが出てくるまで3時間耐える価値はあるな、と。

で、鑑賞してみたら…すいません、筆者が間違ってました!この映画めっちゃ面白い!「人権ビデオ」どころか、鳥取ループのみならず、天皇制や同和利権、糾弾など危険な話題がバンバン飛び出し、軽妙な編集で魅せてくる骨太のドキュメンタリーでした。200分なんてあっという間でしたよ。観てよかった。

個性的すぎる出演者たち

本作は全国の被差別部落のうちいくつかの地域を取り上げ、そこで生まれ育った人たちのインタビューと、それらの間を専門家の解説と資料でつなぐという構成になっています。演出が非常に凝っていて、インタビュー撮影でも視点の移動と固定をうまく使い分けており、ドキュメンタリー映画ながら撮影レベルの高さを感じさせました。

メインで解説を担当しているのは静岡大学黒川みどり教授。本で埋め尽くされた机の上にミニ黒板を置き、淡々と部落史について解説していく様子が印象的です。人権教育っぽい妙に熱のこもった感じではなく(ごめんなさい)、柔らかな口調ながら本当に淡々と、しかしハイテンポで喋っている感じでした。

そんなこんなで本作は登場人物のチョイスが面白い映画でした。処刑地として有名な京都の六条河原のシーンでは、郷土史家の山内政夫実際の処刑の様子を忠実に再現しています。エア処刑される若いスタッフ、手伝わされる若いスタッフ、平然と横を通り過ぎる一般通行自転車

また、合間合間で文字資料の朗読を行っているのは部落解放同盟支部書記長の松村という人(結構若い)。作中この人にずっと部落に関する文学や論説の朗読をさせているのですが、後半で監督はいわゆる「同和利権」の話題を振り、同和利権の深層』の前書きを朗読させます。うわあ、悪いなあ監督!

  • 松村は同和利権についての質問に対し「うちの中にそういう悪いことをしている人たちがいたのは知っているけど、自分の周りにはそういう人がいなくて実感がわかない」と答えています。

それまでの朗読シーンはナレーションのような感じで進められていましたが、この部分だけ、松村の読後の反応までカメラを回しています。ポツリと「…宮部くんと言うてること一緒やなあ」と苦笑。鳥取ループのこと「宮部くん」って呼んでるんだ…

そんな鳥取ループ自身もやはり強烈なキャラクターでした。監督も人が悪いことに、前半の最後に一瞬だけ彼の姿を映してインターミッションを挟み、こちらの期待感を煽ってきます。明けた最初のシーンでは、どこかの街をデジカメ片手に歩く鳥取ループの姿。そう、監督は「ブラクタモリ」の撮影に同行していたのです!

鳥取ループは終始ニヤニヤしながら喋っている印象がありました。行きがけの車中で「部落ってね、面白いんですよー」と淡々と語る様子はなんか怖いです(人のことは言えない)。街中では監督に対し突然「あれどう思いますか?」と団地を指差して問いかけ、監督が「かっこいいと思います」と言うと「ですよね!かっこいいですよね!」。

監督と鳥取ループとの腹の探り合いという感じで緊張感が漂っていましたね。やっぱりドキュメンタリーはキャラクターですな。

「普通の人」にも歴史あり

しかし、なんと言っても本作で印象に残るのは、一般の部落出身者の方々のインタビュー。もちろん「こんなに差別されて大変だった」という通り一遍なこと(ごめんなさい)を語らせるような監督ではありません。

インタビューで特に監督が注目していたのは「差別の時代ごとの移り変わり」でした。それは初っ端のシーンから伝わってきました。先述した松村をはじめ3世代の部落出身者に話を聞いているのですが、世代が離れるとお互いの差別体験に実感が湧きづらいという面が現れていました。

年配の人はとにかく人生のあらゆる面で差別された経験を抱える一方で、若い人は逆に、普段はほとんど出身地のことを気にすることがない分、ふとした時に対応に困ってしまうという、地味な「モヤモヤ」を抱えてしまう体験をしているように見受けられます。そちらもそちらで後味の悪さが残りますよね。

また、本作における人物の映し方に、ちょっとしたメッセージを感じました。序盤、とある市営住宅に住むお婆さんが登場します。最初はお婆さんの生活風景を映しているのですが、氷川きよしの熱烈なファンであることがわかるぐらいで、その他は実に普通。

ところが、この人の身の上話が始まると、戦後間もないころ部落出身者のもとに嫁ぎ、そのまま解放運動に関わった古参の活動家であることが明かされるのです。それまでの情報からはそんな大物だとは露ほども思わないので非常に驚くシーンです。それって逆に考えれば、どんな属性があろうが気にしなければどうでもいいことだって意味にもなりますよね。

このことを深く考えさせられるのが、後半に登場するとある老婦人のシーンです。多分、鑑賞者の最も強く印象に残る人物ではないでしょうか。この人は被差別部落の近くに住んでいるようなのですが、「部落の人たちは嫌いではないし、子供と遊ぶこともある」と言いつつ「親族とは結婚させない、血を守らなければいけないから」などと言い放ちます。

  • なんとなく、『ミステリと言う勿れ』の広島の一族の話を思い出しました。

このバランスが非常に絶妙な感じで、この人はそれが差別に当たることは理解し、後ろめたさを感じつつも、長年刷り込まれた感情からある種の強迫観念を持っている感じがしました。顔出しNGでの出演なのですが、カメラはずっと高級車らしきシートの上に置かれた大きな宝石の指輪を嵌めた手を写していたのも印象深いです。

本作を通して、差別する側も、される側も「普通の人」としてフラットに描こうとしている雰囲気を感じました。そして、そうした描き方は、後述する本作における「差別」に対する視点につながっていたような気がします。

示現社へのカウンター?

本作は、被差別部落をテーマにした作品としてはかなりスリリングな構成をしています。例えば、登場する被差別部落地名も位置もガッツリ明かされ街の様子が俯瞰で出るわ、登場する部落出身者はほとんど実名顔出しだわと、観ているこっちがハラハラしてしまうんですよね。

監督がこのような手法をとったのは、もしかしたら鳥取ループ率いる示現社へのカウンターみたいな意味があったのかな、と少し思いました。作中でも語られていますが、鳥取ループの基本的な主張は「隠すから差別が生じる、部落は積極的に存在を明かされるべき」というものです。解放同盟の人物はこれを「明かすのと晒すのとは違う」と批判しています。

その意味で言えば、本作はまさに「明かす」行為の実践と捉えることが出来ます。とにかく引用される資料の数が半端ないんです。鎌倉時代の文献から明治・大正期の行政文書など、専門的な資料もバンバン出てくるし、文学や新聞記事も参照しています。ここまで色んな資料が集まっているんだなあと素直に感心しました。

ますます圧巻なのは後半。50年以上前、当時京都に存在した朝鮮人の住むバラック街の窮状を訴えるために高校生だった山内がカンパを集めて撮影したものの、共産党のクレームによってお蔵入りになったというフィルムを入手・修復して公開するという凄いシーンが出てきます。鳥取ループには絶対入手不能であろう50年前の貴重すぎる部落映像です。

さらにさらに、話題は天皇制との関係についてまで及び、戦前の解放運動が天皇崇拝と一体化していたという指摘から、当時の融和運動についての講演会のレコード音声が流れ出します。どこで手に入れたのそんな資料!?どんどん危険な領域へ突入していく画面を前に、アーカイバル好きの筆者はもうテンションが上がりっぱなしでした。

実は本作の制作には特殊な経緯があります。監督は12年前、屠場を舞台とした『にくのひと』というドキュメンタリーを制作したのですが、自主上映を鑑賞した解放同盟関係者が、地名を公開したこと、屠場を怖がる人々を映したこと、部落出身者が「自分達で『エッターズ』という草野球チームを作った」と面白おかしく語るシーンを問題視し、監督を呼び出し抗議したそうです。

この時対応した解放同盟関係者が本作前半の終わり頃に出演し、再び監督と対話するシーンがあります。そこでは「当事者抜きに当事者について語ってはいけない」と再び説教を受けてしまうのですが、監督は理解しつつもどこか憮然とした雰囲気を感じました。言ってみれば、監督は「明かしたい」欲求がある点で鳥取ループと部分的に重なる立場にあるのだと思います。

  • なお、本作の公開を受け『にくのひと』も晴れて劇場上映されました。

パンフレットによると、監督は『にくのひと』の一件以降リアルの人間関係にもヒビが入り、部落問題に関わること自体を避けていたそうですが、鳥取ループの事件を機に取材を始めたということです。そういう経緯を考えると、やはり本作は監督の「示現者・鳥取ループとの違い」を確認し、実践する作業でもあったのだと思います。

「差別」と「歴史」

本作は、黒川みどりによる「部落という概念に歴史的な裏付けはなく、近代以降の国策によって創出されたもの」という見解を支持するような構成になっています。とある部落のルーツを調べると、屠場や皮革職人が住んでいたわけではなく、周辺地域の農民が何故か「穢多」とされ追われて辿り着いた場所だったという話が紹介されます。

他にも、部落出身者のインタビューでは「差別」のあり方の多様性が強調されていました。ある人は結婚して別の地域に移り住んだところ差別されなくなったと言う一方、別の人は出生地を調べ上げられたと言います。先述した婦人のように「血」なる概念を持ち出して差別する人もいるわけで、そこに一貫した基準はないことがわかります。

本作に出演した鳥取ループはカメラの前で「部落問題は差別ではなく貧困問題だ、部落出身者との付き合いが避けられるのは解放同盟などの団体の悪評によるものであって、解決すべきはそこだ」と主張します。倒錯した考えではあるのですが、一方でこれは鳥取ループが「部落」という概念の曖昧さを感じているからこそ出てくる意見であるようにも思えます。

黒川の仮説が正しいかどうかは筆者には判断できませんが、本作で監督が主張したいのは「差別の本質とは、その理屈ではなく、それが繰り返されること自体にある」ということではないかな、と思いました。それは言い換えれば「歴史」であるということだと思います。誰かがその歴史を変えていかない限り、差別問題は終わらないということではないでしょうか。

監督が特に熱心に取り上げていたのが大阪府箕輪市にある「北芝」という地域でした。北芝は全国的にも珍しい、自らの被差別部落としての歴史を公表している場所です。北芝はかつて同和事業の対象となっていたものの、90年代に若い運動家が集まって方針の転換が行われ、周辺地域と積極的に交流を深めていくことで「開かれた部落」と呼ばれるようになったとか。

作中では、北芝出身の幼馴染の若者3人が、母校の教室で語り合うという胸アツなシーンが登場します。お互いの差別についての認識を率直に語り合うと、やはり各々微妙にすれ違いがあることがわかります。しかし、彼らは真剣に議論を重ね、お互いの違いを理解して認め合います。最後にウクレレの伴奏に合わせ、全員でブルーハーツの「青空」を歌うシーンが凄く良かったです。

  • ところが、監督は歌に合わせて2ちゃんねるに書き込まれた部落差別のレスを次々に映すという意地悪な編集をしていました。

このシーンに並行して、最初に登場した地域の同世代の出身者が、自身の弟に電話をかけ、同じように差別について語らうシーンも印象深いです。その少し前のシーンでは、先述した老活動家のお婆さんが、取り壊しにより公団住宅を退去する前日に密着しています。酒を飲みながらこれまでの人生に思いを馳せ、やがて自然に眠ってしまうシーンは、アメリカの青春映画のようでした。

これらのシーンからは、本作の「若者」に対する優しい視点を感じました。監督が最終的に伝えたかったのは、歴史を変える権利があるのは若者だけである、という普遍的なメッセージだったのかもしれません。

『FLEE』なぜアニメーションだったのか?

難民をテーマにしたドキュメンタリー作品です。デンマーク在住の監督が、古い友人である難民出身の男性にインタビューをし、自身の半生について語ってもらう…という一般的(?)な内容ですが、その手法が注目されました。本作は、その殆どがアニメーションで構成されているのです。

インタビュー内容に基づく回想シーンはもちろんのこと、インタビューそのものの映像や、途中に挿入されるオフショットのシーンまで全てがロトスコープ的な形でアニメ化されています。すげえ労力。そんなわけで本作はアカデミー賞国際賞・ドキュメンタリー賞・アニメ賞の3部門同時ノミネートという史上初の快挙を成し遂げています。

そんなわけで、本作はもしかしたらアニメーション映画として鑑賞した方も多いかもしれません。実際、筆者が鑑賞したのもアニメに強い新宿バルト9でした。ドキュメンタリーというのはたいてい席が余りがちなので、当日券狙いで向かったらほぼ満席で非常に焦りましたね。

本作がアニメーションという手法をとったのは、主人公の男性のプライバシーを守るためだと説明されます。実際、本人は仮名で出演し、顔も描き換えられているようです。しかし、筆者は本作がアニメーションであることに、別の意図を感じました。それについては後に論じたいと思います。

なお、筆者は「ドキュメンタリーにネタバレという概念はない」と考えているので、いつも警告は最小限にしていますが、一応本作はアニメ作品としての扱いも受けているので、以下、ネタバレを含んでいることを明言しておきます。

「アニメーション映画」として

筆者は海外アニメの鑑賞経験があまりありませんが、本作はアニメ作品としても非常に面白かったです。落ち着いた絵柄と動きながら、「視点全体の移動」が印象的に用いられていて、躍動感をしっかり感じさせます。

特に好きなのが冒頭のシーンで、インタビューを受ける主人公のアミンが寝転がりながら監督に「リラックスして、人生の最初の記憶を思い出して」と呼びかけられると、画面が溶け出し、モーフィングするようにアミンの幼少期のシーンへと遷移していきます。一気に作品に引き込まれましたね。

本作はインタビューの際の映像と、インタビューに基づく再現映像とが共にアニメで表現されています。両者の境目は実にスムーズに展開していて、アミンの脳内そのものにダイブしているような没入感がありました。アニメとしても、ドキュメンタリーとしても斬新だと思います。

  • この時流れるBGMは『テイク・オン・ミー』。当時アミンが実際に聴いていたのだそうですが、本作にあまりにぴったりすぎます。

ストーリーはというと、アミンはアフガニスタン生まれで、幼少期から自分がゲイであることに気づいていました。そんな中、ソ連のアフガン侵攻が始まり、父親が当局に連行され行方不明に。そこでアミン一家は国外脱出を決意します。アフガン難民と言えば90年代以降の内戦のことが思い浮かびますが、この頃から難民は生じていたんですね。

一家は崩壊の真っ最中のソ連に亡命しますが、難民かつ宗教的・人種的にマイノリティな彼らは行政ぐるみの差別に遭い、北欧への脱出を決意します。このときの、当時モスクワに出来たマクドナルド1号店に兄と共に見物に行き「安全な場所に行けたら二人で食べよう」と言うシーンは、今観ると別の感慨があります。

一家は当初安い難民斡旋業者を選びますが、船を使った危険な出国を強いられ、しかも途中で警備船に見つかってしまい強制送還されてしまいます。途中で現れた豪華客船に助けを求めて手を振るも、写真を撮られるばかりで相手にされない…というシーンは観ていて非常に心が痛みます。

ところでこの「難民業者の選定失敗」という下りは、昨年本邦で公開されたドキュメンタリー『ミッドナイト・トラベラー』を連想させました。この作品も、タリバンから死刑宣告を受けたアフガン人の監督が家族を伴って欧州に脱出する様を、自らスマートフォンで撮影した映像をもとに描き出す作品でした。

このドキュメンタリーでも、悪質な難民業者を引いてしまった家族が脅迫を受けてしまう生々しいシーンがありました。30年前の難民と、数年前の難民とが全く同じ経験をしているというのはなかなか興味深いことです。

ドキュメンタリー映画」として

アニメ映画として評価されがちな本作ですが、実際はれっきとしたドキュメンタリー映画です。それは、本作における様々な演出から明らかです。パンフレットによると監督は、後述するインサートの使用は、ドキュメンタリーであることを意識させるためあえて行ったと述べています。

例えば、本作ではアニメパートの合間に当時の実際の映像がインサートされます。冒頭シーンではアミンの幼少時代のカブールの映像、当時のアフガンの政情を説明するシーンでは最高指導者アミン議長(紛らわしいですね)の演説、一家が亡命を決意する際にはアフガン侵攻のニュース映像が流れます。アニメ映画として観に来た人は驚いたかもしれません。

単なる参考資料だけではなく、驚きの映像の使い方もなされています。アミンは姉と別々に亡命して生き別れになるのですが、その時姉が乗った難民船が遭難したらしいと聞いたという話をします。この直後、この件に関する当時の実際のニュース映像が登場するのです。よくこんな映像残ってましたね…ドキュメンタリーとしても凄いと思いました。

  • パンフレットによると、監督はこれらの映像をほとんどYouTubeで見つけたそうです。凄いなYouTube

さらに、アミンのインタビュー撮影の手法がかなり凝っていて、仰向けに寝かせた状態で上から見下ろすように顔を撮影し、正面からの映像になるようにしています。また、様々なアングルで撮影したものを次々切り替えたり、カチンコを叩く箇所もそのまま入れていたり、拘った編集をしています。これも近年のドキュメンタリーによく見られる手法です。

一方で、ドキュメンタリーとしても面白いと思ったのは、本作における「音」のこだわり方です。アミンのインタビューはものすごく高精細なマイクで録音しており、ベッドの上で身じろぎする音もくっきりと聞こえます。さらに、アニメパートでは実に細かく効果音が当てられていて、奥行きのある、臨場感たっぷりな音響になっていました。

パンフレットによると、監督は元々ラジオドキュメンタリーを専門的に手掛けていたそうです。もしかしたら、本作における「音」の演出はその経験から来ているのかもしれません。一方で、本作で唯一現実そのままなのもまた「音」。両パートの音のこだわりは、その境界を曖昧にさせる効果を感じました。

押井守によれば「映画の半分は音」なんだそうですが、筆者も音にこだわりのある映画は大好きです。そういう意味で、監督の選択には手放しにあっぱれと言いたいと思います。

アニメという手法の意味

先述したように、本作がアニメーションという手法を利用した第一義的な意図は、アミンのプライバシーを守るためです。ドキュメンタリーでは常に、被写体の表情を撮りたい欲求とプライバシーの保護との間で板挟みになりがちですが、本作はそれをアニメで解決する試みを行ったとも言えます。

一方で、本作における「アニメ」には、別の意味もあったのではないか?とも考えさせられました。先述したように、本作のアニメパートはアミンの心象風景なども含んでおり、ただ現実の模写や再現にとどまらず、アニメらしいある種の「虚構性」を備えています。この「虚構性」が重要な役割を果たしているように思えました。

序盤で、アミンは家族が目の前で連行されたことを語り、現実パートでは昔の手帳を取り出し、ペルシャ語で書かれた文章を読みます。そこには、家族が皆殺しにされ、ひとり取り残された壮絶な身の上が綴られていました。生き別れた姉の消息も不明であるようなことが語られ、彼の孤独性が強調されます。

ところが後半になると、話の端々や再現パートから、それらの描写に矛盾するような雰囲気が漂い始めます。そして、終盤に真相が明かされます。主人公は高額の難民業者に依頼しデンマークへの脱出に成功するのですが、強制送還を避けるため、家族を失ったという虚偽の経歴を話さなければならず、他人に本当の経歴を明かしてはならなかったのです。

ここでのアニメーションの使用というのは、主人公が実際に抱え込んでいた「虚構の人生」を表現する手段として用いられているように思えました。単なる真新しい表現手法としてだけではなく、アニメーションの虚構性をメタ的に活用した斬新なドキュメンタリーだったと思います。

また、主人公がゲイであることを隠し続けていたことも一つの要素になっているでしょう。終盤、パートナーが出来ない主人公を家族が案じ始め、ついにカミングアウトすると、父親がこっそりとゲイ専門のナイトクラブへ連れていき、「最初からわかってたさ」と告げるシーンは、今思い出しても涙が出そうです。

本作のラストは、パートナーと共に新たな人生を歩み始めたアミンを後ろから捉えると、去り際に一瞬だけ実写に戻るという演出になっています。先述した『チェチェンへようこそ』にも同様のシーンがありますが、本作は、虚構の過去と決別し、人生を描き直すという主人公の決意を反映しているのではないかと思いました。